ケアチームサフラン

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第7話「特別扱いはイヤ・・みんなと同じでいい」②


一日分の宿題が2冊のノートに及んだこともあったのですが、担任の先生は1文字1文字しっかり見てくださり、すべてのページに「はなまる」をつけてくれました。
「ミミズみたいな字で大きい字」しか書くことができなかったので、添削してくれたいた先生の方が大変だっただろうと思います。
健常児のクラスメイトに混じって毎日過ごしていく上で「先生に評価されたい」「みんなと同じように勉強していきたい」という気持ちが芽生え、先生に「圭子ちゃんはおうちで訓練しないといけないから宿題はしてこなくてもいいよ」と言われていたのですが、私は「障害があるから」「重度」だから「勉強しなくてもいい」「役割を任わなくてもいい」と言われるのがその頃からイヤで、母親に「全部宿題したいから訓練1回減らして」といって必死でその日の宿題をこなしてことがあります。
自分の障害に負けないためにも「時間がかかっても与えられた課題や仕事は最後までこなす」というポリシーを持ち続けることが大事だと今でも思っています。



2018年3月26日 10:09 AM | カテゴリー: 未分類, 曲圭子様コラム 本文


第7話「特別扱いはイヤ・・みんなと同じでいい」①


昭和59年4月、両親や多くの先生方に支えてもらい、晴れて地元の小学校に入学することが
できました。
両親は「勉強できなくてもいい・・・健常児の子達に混じって学校生活を楽しんでくれたら」と最初は思っていたようです。
私も自分の名前をひらがなでやっと書けるぐらいで、1年の秋頃まで言葉もまだ「ママ」「うん」
とかの単語しか言えなくて、文字も読めなくて、ただ「みんなが勉強している教室で、椅子に座って過ごしていた」という感じでした。
クラスメイトに色んな刺激をもらい、「ひらがな」も「たし算」・「引き算」も少しずつ覚え1年生の終わりには、「読解力」が全くなかったものの、国語・算数・理科・社会は授業に私なりについて行けるようになっていました。
その頃も「ボイタ法」の訓練は毎日必ず、学校に行く前の早朝、帰宅後、入浴前、就寝前の4回母親にしてもらっていたのですが、「不随運動」がなかなか取れなくて、手の「力の入れ加減」も感覚的に分からなくて、ひらがな1文字もノート1ページに大きく、書くのがやっとでした。
「ひらがな」の五十音を書く宿題が出るたびにノート何冊も使い、宿題を仕上げて行った記憶もあります。



10:08 AM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


第6話「ママ、私もお勉強したいなぁ」①


6歳になり、1歳のときから親子で通園していた園での生活も残り半年・・・

年長さんになった私の生活は、当園したらまず母親にボイタ法の訓練をしてもらい、集団保育・個別保育をはさんで園の先生にボーバス­法の訓練や作業療法や言語訓練を受けるという訓練尽くしの毎日でした。

父親が小学校教諭だったこともあり、年長さんになった頃より、クレヨンや鉛筆をもって、「絵を描くこと」や「文字を書く真似」になどをしたりして、「勉強したい」「小学校にいきたい」という気持ちが芽生えてきました。

園の個人保育の時間もよく母親に手を添えて貰ってクレヨンを持ってひらがなを書く練習をしたり、絵を描いたりしました。

秋ごろ「小学校就学前検診」が地元の小学校であり、バギーに乗せられて母親といきました。

そこでは同じ年の健常児の子どもたちが保護者に付き添われてきて、私と同様な知能検査と体重測定や視覚検査などの健康診断を受けていました。

同級生の子どもたちも私の方を指さして、「ねえ、あそこに大きな赤ちゃんがいている」と物珍しそうに見ていました。



2018年2月23日 11:52 AM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


第6話「ママ、私もお勉強したいなぁ」③


家でも園でも「1人の子どもとして、ご挨拶するのが礼儀」だと教育を受けていたので、挨拶をするだけで、なんで必要以上に褒められているのか分かりませんでした。

その後、一日養護学校の一日体験授業を受けましたが、養護訓練、軽作業といった養護学校ならればの授業や図工の授業ばかりなので、私が想像していた国語や算数の授業なんか1時間もなかったので、「ここは私が行くべきところと違う」と幼さながらにして、養護学校の教育感に違和感を感じてしまいました。

体験入学が終わり、家に帰ると早速両親に「私みんなと同じように勉強したいから楊津小学校に行きたい。養護学校には行きたくない」と私の率直な気持ちを伝えました。

両親も「圭子もランドセルを持って小学校行こうね」と言ってくれました。

3月末日、母親が送り迎えをすることが条件で地元の小学校への入学が認められ、入学通知が届きました。

その翌日、両親にランドセルや学用品を買いに連れて行ってもらいました。

ランドセルを初めて手にできたのも入学式数日前だったので、嬉しくて訓練と食事の時間以外は

ずっとランドセルを開けたり、閉めたりして遊んでいたような気がします。



11:49 AM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


≪追悼S・Wさま≫


去る9月10日、肝臓がんにより、S・Wさまがお亡くなりになりました。
こちらのページでは、関係者からS・Wさまへの追悼メッセージをご紹介いたします。

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最後にサービスに入ったのは1年以上前でしたが、いつも笑顔が印象的でした。たくさんお喋りもしてくださって、楽しい時間を過ごせたことを覚えています。イベント等でも、明るい雰囲気を振りまいてくれて、久しぶりに会えばいつも笑顔になれました。ありがとうございます。(A・S)

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サービスを行き始めて2-3回でこれからと思ってた時でした。少ししかお話しが出来なかったですが、最後にサービスを入れて良かったと思います。(K・K)

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Sさんと思い出:オルゴール館や関空でのハプニングや三宮でネックレス買い物等、お出掛けの思い出があります。
贈る言葉:8月から調子悪く、しんどく、なかなか原因分からずつらく、最後は辛かったですよね?もっと色々お出掛けしたかったでしょうね。ゆっくりお休みください。ご冥福お祈り致します。(M・N)

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出会いは8年前でした!足で電動車椅子を操作されてたSさんは格好よかったです。外出・夜のサービス・・・思い出は・・・つきません。静栄さんの笑顔最高でした!ありがとうございます(C・H)

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サフランに入社して間もない頃Sさんと守る会の講座でお会いしました。第一印象はよく笑うお婆ちゃんでした。その後サービスに入り車椅子を暴走させたり二人とも知らない場所に出かけて迷子になったり今でも忘れられない思い出がたくさんあります。ありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします(T・S)

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今年の夏は短く、涼しくなり始めたかなと思い始めたこの度、S様がお亡くなりになられたことを受け、いろいろな思い出がよぎっております。哀愁ならず哀秋でしょうか?私のS様のイメージとはいつもテレビみておられ、思い出し笑いをされる方で、おおらかな方でありました。私事ですが、1度サフランを抜けて、しばらく鉄道職に就きその際は宝塚駅及び乗務列車でよく、電動車椅子で目の前に来ていただいたものです。大半は中山寺駅で降りられてましたが、いつも最後尾をじーっと見ては笑われてました。駅務のときは新幹線の切符を東京駅まで、発券したり。。S様と私は切っても切れない縁があったのでしょうか…(笑)
そして、サフランに戻って来た時には大変喜んで受け入れて下さり、また、時には怒られたり、たくさんお話しをして、お風呂湯沸かしが遅れたり、2人でボケあったり、お菓子をくださったり、、、3時間の枠の少ないなかで私のヘルパーの姿をお見守り、ご指導いただき、時にいろいろ汲み取っていただけたりと、心優しいお方でした。
お仕事とはいえ、私からするとおばあちゃんのような存在で、いつも到着時には〇〇さん!って声が飛んできてフレンドリーに笑顔で迎えていただいたことは大変嬉しかったです。
長くなりましたが、S様人生からすると本当に短い時間でしたが、お世話になりました。そして、ありがとうございます。どうか、安らかにお眠りください。ご冥福をお祈り申し上げます。(T・S)

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このたび、Sさんの突然の訃報に際し、大変驚き、悲しみ、残念な気持ちになりました。
Sさんとは施設にいたときからの知り合いでしたが、私が自立し暫く疎遠になっておりましたところ、サフランの忘年会やイベント等でお会いでき、満面の笑顔で楽しまれていたのが心に残っています。
Sさんも猫が大好きだということで、私が運営しておりますNPO法人が母体の猫カフェを兼ねた作業所、【地域活動支援センター りる・あんじゅ】にも利用登録していただき、いつも猫たちに囲まれ、幸せそうに笑っていたSさんと過ごせて、私もとっても幸せな気持ちにさせていただきました。
りる・あんじゅのスタッフ一同、ここ最近Sさんがいらしてないことを気にしておりましたところ、突然の悲報に驚くばかりで…、あのステキな笑顔がもう見られないと思うと、とても寂しい気持ちになりました。ですが、いただいた幸せを胸に、Sさんの御冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。Sさん、どうか安らかに。そして、ありがとうございました。(F・F)

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雨のしとしと降る中、旅立たれました。穏やかな表情で花に包まれつつ、S・Aさんにプレゼントしてもらった(とご本人がふれまわっている)リュックに、パスポートやドル紙幣も詰めて、お菓子や皆さんの手紙と共に・・・今頃、本当に雲の上なんですよね。エピソードに事欠かない方でした。沢山の笑顔をありがとうございます!(Y・Y)

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サフランに入って間もない頃から今までずっとSさんのケアに入らせて頂いてたので、沢山の時間を一緒に過ごせた分、想い出も一杯Sさんから頂きました。
お見舞いに行かせて頂いた際、Sさんに「このままお別れなんて絶対に嫌やから…帰ってきはるのを待ってますね」と声を掛けたら反応されて一生懸命、何か返事されようとしてましたね…
凄く嬉しかったのですが2日後に逝ってしまわれましたね…亡くなられた当日もお見舞いに行かせてもらうつもりでした。入院されてからある程度、覚悟はしてましたが…
あまりにも急だったのでまだ信じられない気持ちも残ってます。でもSさん体は相当辛かったと思います…なのに帰ってくるのを待ってると勝手なことを言って申し訳なかったです。
今は辛い時間が短かかったのは良かったのではと…自分に言い聞かせてます。
想い出を語ると、きりがありませんがSさんの笑顔と笑い声、豪快な車椅子の運転は決して忘れません(笑)
今まで本当にありがとうございました。お出かけが大好きだったSさん、向こうで行きたい所に行って一杯楽しんで下さいね。(S・A青谷眞治)

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Sさんは守る会のメンバーでしたのでよく講座を手伝ってくれました。マイペースで自分のやりたい事は最後までやり通すSさんでした。私は講座の時に電動車椅子で来たSさんが1人で先々行ってしまう事に怒ったりしました。でもSさんは”分かってるよー”って笑って流す人でした。私はムカつきながらもSさんらしいなーと微笑ましく思っていました。
亡くなった当日、お見舞いに行きました。どんな言葉をかけたらいいのか色々考えてドキドキしながら病院に行きましたが最期には間に合いませんでした。顔を見て”色々ありがとうね”って声をかけたら笑っているようでした。
Sさん、今まで楽しませてくれてありがとうございました。心よりお悔やみ申し上げます。(M・A)

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2017年9月19日 4:38 PM | カテゴリー: 利用者様コラム


第6話「ママ、私もお勉強したいなぁ」②


私も同年齢の健常児の子どもたちに会うこと自体初めての経験で、かなりの新鮮さがあり、「来年から地元の健常のお友達と一緒に勉強したり、遊ぶことができる」と思うと嬉しくなりました。今現在では、ノーマライゼーションやインクルージョンの統合教育の理念によって、障害を持つ子どもたちも地域の小・中学校で同年齢の健常の子どもたちと共に学び育って、成人後も重度訪問介護等のヘルパーサービスや就労継続支援A型・B型などの福祉サービスを活用しながら、地域で健常者と同様な生活をすることが主流になってきていますが、私が小学校に就学する頃は、小学部から高等部まで養護学校で過ごし、卒業後は入所型の障害者施設に入所するという障害者特有なレールが引かれていたため、なかなか地域の小学校の入学も認めて貰えませんでした。

「就学前検診」のときも、母親と私だけ校長室に呼ばれて、校長先生から「ここはお宅のお子さんみたいな子が通う学校ではない」「養護学校は、お宅のお子さんみたいな障害がある子のためにあるから、養護学校に行けばよろしいですかなぁ」とあっさり言われたようです。でも母親は、園でも家でも訓練の合間に「圭子ちゃんもお勉強する」と嬉しそうにクレヨンをもって絵を描いたりしていた私の姿を絶えずそばでみてくれていたので、「最後まで養護学校に行かせます」と言わずに、地域の小学校の入学が許可されるまであきらめずに、教育委員会や校長先生との話し合いを続けてくれたようです。そんな時期、地元の養護学校の1日体験入学に母親と行きました。養護学校の玄関先で多くの先生たちに出迎えて頂いたので、私は礼儀として「おはようございます」と挨拶すると「圭子ちゃん、ちゃんと挨拶できておりこうさんですね」と必要以上に褒めて貰いました。



2017年9月7日 5:14 PM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


第5話「私の故郷『猪名川町』」①


私の故郷「猪名川町」

ことわざ「継続は力なり」と言われるように、整肢学園退院後も母親に1日4回の訓練を毎日してもらったことで、四つ這いで移動できる距離も徐々に増え、自力で移動することで今まで以上に園でも、自宅でも色々な物をみたり、触ったりすることで、視覚や感覚などがついたり、少しずつ言葉やしゃべることを覚え始めたのもその頃だったような気がします。私が5歳になった夏、両親が夢の1戸建てのマイホームを山々に囲まれている田園風景や昔ながらの茅葺き屋根の家がちらほら建っている長閑な風景が広がる猪名川町に建てました。猪名川町に家を建てた理由の一つとして、「自然も多くて、空気も美味しくて、子育てをしていくのには良さそうな環境やし、圭子も一戸建ての家なら自由に四つ這いで家の中を動き回れることができるやろうから伸び伸びと育ってくれたら」という両親の私に対する思いがありました。今の実家に移り住む前の川西の家は3LDKの平屋だったので、私にとっても弟にとっても2階建ての広い新築の実家の存在自体物珍しくて、引っ越し後もよく実家の中で弟と四つ這いで「鬼ごっこ」や「かけっこ」をした記憶がよみがえります。



5:10 PM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


第4話「ボイタ法との出会い『ボイタは私にとって身体を整える一生の薬なの』」⑥


母親は「ボイタの訓練を完ぺきに覚えるまで10年かかったわ」と話しています。でも、父親と産まれたばかりの弟を家に残してきた罪悪感が母親にあったみたいで「何とか成果を出して帰らないと父親と母親(祖母)に合わせる顔がない・・・」と自分自身に言い聞かせ、毎回のように訓練を泣いて嫌がる私に「私の将来」を考え、あえて鬼になってしてくれたようです。母親の想像も絶する頑張りがあって、母子入院3週間目で「いざり」ができるようになり、退院時には「四つばい」ができるようになり、父親と弟が待つ自宅に帰ることができました。退院するとき「やっと嫌な訓練から開放される」と思ったのですが、自宅に帰ると「おもちゃ箱」があった部屋にボイタ法の訓練用の新しい訓練台が置かれていました。幼かった私は、「また家でもママに痛いことされるのかなぁ」と思い、新しい訓練台を見たとたん、嫌なものをみてしまったような気分でした、両親は「ボイタ法は圭子に合った訓練方法」だと思うことができたらしく「ボイタ法をしながら圭子を1人の子どもとして育てていこう」と決心したようで、平日は母親、日曜は父親と母親に交代で訓練してもらう日々が中学卒業まで続きました。母親にとったら、整肢学園を退院した時点こそが私の子育ての本当の意味での始まりだったかも知れません。



5:09 PM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


第4話「ボイタ法との出会い『ボイタは私にとって身体を整える一生の薬なの』」⑤


主治医から「訓練は体を整える薬だと思って死ぬまで毎日2・3回やりなさい」と言われています。ボイタ法の訓練は毎日、自宅で子どもの頃は母親と、成人になれば自分で決められた回数こなさないといけないので、母親と私が訓練することへの意義をしっかり理解した上で訓練技術を正しく習得することや家族・親戚や勤務先などの周囲の方々の理解が得られなければできません。母子入院二日目以降、母親にとっても私にとっても午前2回、午後2回という過酷な訓練の日々が始まりました。母親が朝食後、部屋にバギーを持ってきたとき、「家に帰れる」と思い、一度は喜んだものの、連れて行かれた先は…幼い子どもたちの涙と汗がぎっしり染み込んでいる訓練台が並んでいる母子入院の訓練室…訓練室に入ったら、すぐ母親に全裸にされて先生に「今日からママに訓練覚えて貰うから圭子ちゃんもママが訓練しやすいようにおりこうさんで頑張ってね」と言われました。その頃の母親世代になって、勤めながら毎日自分で訓練するようになった今、私よりも母親の方が大変だったと思います。1相、ポジション、2相、クリーヘンの順で4種類の訓練を家で帰ってから母親が私にできるように、母子入院の期間中に習得しないとなりませんでした。単に訓練の方法を覚えるだけではなく、誘発帯という刺激するつぼの位置やそのつぼを刺激することで得とくされる効果など覚えないといけなかったので、医師や理学療法士の基礎知識がない母親にとったら難しい資格試験に挑戦するぐらい難関なことだったと思います。



5:07 PM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文


第4話「ボイタ法との出会い『ボイタは私にとって身体を整える一生の薬なの』」④


私今まであまりうつぶせの姿勢にされたり、押さえつけられて訓練されることが今までなかったので、初日から他の赤ちゃんに混じって、号泣したことを覚えています。泣いても逃げようとして暴れてもその分先生に力で押さえつけられるだけ・・・泣いても決して止めたり、訓練の手を緩めることをして貰えず、反対に私が暴れてうつ伏せや四つ這いの出発肢位(ボイタ法の反射性移動訓練の最初にとる姿勢)を崩してもすぐ取り直され、先生の体全体で暴れて逃げないように押されつけられる始末、まだ幼かった私は「どうして悪いことしてないのに、痛いことをされないとあかんの」と不思議に思い、訓練の女の先生の存在自体が魔女に見えました。今から思い起こすと、そもそも私が寝たふりをして、ボバース法の訓練を真面目にしなかったことが悪かったのですが・・・初回の訓練が終わって、母親に泣き顔をタオルで拭いて貰い、服を着せてもらったとき「やっと嫌なことが終わった」と思いホッとしましたが、「終わり」ではなく、これがアラフォーのおば様になった今現在も、いや一生涯のスパーンでやり続けないといけないであろう、私にとってのボイタ法の訓練生活の始まりだったのです。



5:04 PM | カテゴリー: 曲圭子様コラム 本文